柔らかな粉引が人生を映し出す
陶芸が生み出す新たなコミュニケーション

Case.28

高木 剛さん
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文:大内理加 (大内商店)
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写真:Suzuki Akiko

人通りの多い吉井町・白壁の通り沿いにも関わらず、郊外にいるような静けさを感じる昭和モダンな一軒家。リビングというよりも「お茶の間」といった風情の座敷には、真夏でも緑豊かな庭先から爽やかな風が吹き抜ける。その中で、高木さんの器たちは、まるでそこにいるのが当たり前のような顔で鎮座している。とろりとなめらかな質感の高台皿、手にしっくりとおさまる茶碗、かわいらしいお猪口…
どれも尖ったデザインや色ではないけれど、手に取ると不思議な愛着が湧いてくる。だからこそ、洋間でも和室でも現代風のリビングでも、しっくりと馴染み、独特の存在感を放つ。高木さんの言葉を借りれば「自然体」がそこにはある。

東京、山梨、京都からうきは市へ
社会との関わりも創作の糧に腕を磨く

陶芸家・高木剛さんと奥様の瑞枝さん、一人娘のゆずちゃんの三人家族がうきは市で越してきたのは2年前。鹿児島県出身の高木さんにとって、うきは市は縁もゆかりも無い土地だったという。

「僕は鹿児島県出身で、高校卒業後に上京したんです。もともと絵を描いたり、物を作ったりするのが好きだったので、父が東京の知り合いのギャラリーを紹介してくれて、そこでアルバイトしていました」

高木さんが勤めていたギャラリーは陶芸の展示をメインにしていて、伝統工芸やアート、日用品など、日本中から集まるさまざまなジャンルの作品に触れることができた。陶芸への興味が日増しに高まり、とうとう山梨県の陶芸家へ弟子入りすることに。3年間の厳しい修業で作陶の技術を身に付けた高木さんは、再び東京都へ。下町・台東区の古い倉庫にアトリエを構え、バイトをしながら制作活動を続けていたという。

「作陶や陶芸教室をしながら、飲食店や築地市場などのいろんなバイトをこなしていました。器は料理を盛り付ける道具でしょう。だから、その時の経験は今でも役に立っていますね。飲食以外のバイトもたくさんやっていました。ビルの清掃とかコンビニとかね。そういうものの中に得るものがあるんじゃないかと思って。お金のためでもあるけど、陶芸ばかりを追いかけてきた自分にとって、知らない世界に飛び込むのがとても楽しかったんですよ」

好奇心が原動力になるのは、クリエイターの性分なのかもしれない。個人作家の大きな武器となるオリジナリティは、こうした生活によっても育まれてきたと高木さんは考えている。

28歳になって、高木さんは本格的に陶芸家として独立するために新天地へ。選んだ場所は、古都・京都だ。もちろん、住んだことも無ければ、知り合いもいない。

「京都はモノづくりが盛んなので、陶芸の原料も集まるし、マルシェとか陶器市とか発表の場所もたくさんある。かけだしにはいい足がかりになると考えたんです。それに、長い歴史と文化がある都市でしょう。当時は、陶芸の勉強のために骨董や古い作品をよく見ていて、その作り手に興味があった。技法とか流行とか表面的なものではなくて、どういう背景や思いがあって作ったんだろうってね。作品の中にある、『その人らしさ』にグッと掴まれるものを感じたんです」

京都で少しずつ研鑽と実績を重ね、30歳ころに京北町に工房を開いた高木さん。念願だった薪窯での制作も始まった。さらに、陶芸市で生涯の伴侶である瑞枝さんと出会い家庭を築いたのもこの時期だ。陶芸家としてのキャリアも人生も順調に進んでいた京都からうきは市への移住には、どんな目的があったのだろうか。

「京都で過ごした10年間は、陶芸家としてとにかく頑張る時期。次のステップに移るなら、もっと大きな窯を作りたいと思ったんです。僕は個人作家なので、京焼とか有田焼とか、産地ではない場所の方が自分にとって都合がいい。場所に縛られることなく、住みたい環境を探していたら、以前旅行で訪れたうきは市にたどり着きました」

フルーツや野菜など、一年を通して食材が豊富なうきは市は、食べることが好きな2人にぴったり。温暖な気候や九州中へのアクセスが便利な点も決め手になったとか。
うきは市に移住してまだ2年だが、家を用意する6年も前から山奥に大きな薪窯を作っていたとか。
お話を聞きながら、ウワサの「李椿窯(りちゅんがま)」へ向かった。

果樹園の奥に広がる工房で
変わりゆく自分を表現する

くねくねと連なる農道を登ったところにある「李椿窯」には、煉瓦造りの薪窯と灯油が燃料の灯油窯が一つずつ設置されている。周辺には薪が積み上げられたいくつもの山が見える。

「陶芸って、器を作る以外にもやることが多いんですよ。薪も自分で用意するし、除草もしなきゃならない」

薪釜の隣には、足で蹴って回す「蹴ろくろ」を備えた工房がある。心地よい山の空気の中で、高木さんはどんなことを考えながら創作に励んでいるのだろうか。

「展示会の場所やお客さんの傾向などはなんとなく考えますが、プラスアルファとして『自分らしさ』を出せるようにとは考えています」

「作風は“こう見せたい”と決め込むものではなくて、自然ににじみ出るものだと思っています。だから、自分の変化はそのまま作品にも表れる。僕にとって二つと同じ作品は無いんですよ。原料や製法が同じでも、独立したての頃と今では全く違うものができるはずです。だからこそ面白いと思ってもらえるのではないでしょうか」

高木さんの器に感じる愛嬌は、作り手自身の生き様につながっている。人間の持つ面白みが、器をもっと深く、そして身近な存在にしてくれるのだ。

憧れの地で見出したのは
自然との対話から生まれる感動

高木さんの作品づくりの変遷には、いくつかの転機があったという。その一つが、今や代表作の一つになっている高台皿が世に出るきっかけとなった「李朝白磁」との出会いだ。
「李朝白磁」とは、14世紀ごろから朝鮮半島で作られていた陶磁器で、生地を白い土で上塗りをしているのが特徴。素朴なたたずまいの器は今でもコレクターが多いと聞く。高木さんも以前から注目していたが、2012年に研修で韓国の「李朝白磁」の里を訪れることができたのだという。

「当時の作品を見ると、余計な力が抜けていて“自然体”なんですよね。僕のように現代に生きる陶工は、少なからず市場やニーズ、流行などの縛りがあるでしょう。でも、昔はそうではない。しかも火や水はもちろん、土、釉薬まで全て天然のものしかないから、いつも同じクオリティというわけではない。毎回自然と向き合わないといい作品はできないんです」

「李朝白磁」に感銘を受けた高木さんは、白い化粧土でコーティングする「粉引」と呼ばれる技法で高台皿を作り出した。李朝白磁に比べると、今の高木さんが作るのはより温かい白色で、デザインは洗練された印象。モダンなインテリアにもよく似合う。これが今の時代に生まれた“自然体”なのだ。

そう言えば、瑞枝さんがこんなことを言っていた。京都の陶器市で本人に会うよりも先に器に一目惚れしたという瑞枝さんに、ご主人の作品の印象を聞いた時のことだ。

「自分の思うように作るというよりも、委ねるというか、土に寄り添っている感じがします。そういう本人の大らかな性格が作品にも出ていると思う。一つずつ味わいが違うところも好きですね」

さまざまなものの声に耳を傾けて、自分の中に取り込んで形にする。思い通りにならないことも多いが、だからこそやりがいがある。陶芸家とは思ったよりも社会と深く関わる仕事なのかもしれない。

瑞枝さんは、今では高木さんと一緒に薪を割って、窯の扉が開くのをワクワクしながら待つようになったという。作品に込めた思いは、こうして人から人に伝わっていく。

家族との日常が支える創作活動が
作品を越えて人と人をつなぐ

うきは市に移住してまだまだ試行錯誤の日々が続いているが、それでも手ごたえを感じることは多い。例えば、瑞枝さんとゆずちゃんの存在が作陶にとってもいい影響を与えてくれているということだ。

「家族ができたことで、オンオフの切り替えがうまくいくようになったんです。子どもと遊んだり、おいしいものを食べたり、オフをしっかり楽しむことができるから、逆に陶芸にも集中できる。創作しているのは、ろくろの前に座っている時間だけじゃないんですね」

陶芸家として独立してから10年を経て、これからは新たな挑戦を考える段階。
うきは市や周辺に出向いては土を掘り出して使ったり、自宅をリフォームして展示販売を企画したりと、上手な息抜きは早くも次なる発想を生み出している。

「これからは作って売るだけではなく、陶芸に興味を持ってもらうことも大切だと感じています。例えば粘土で実際に作ってもらうワークショップを開催するとかね。お茶碗ってこんな風にできるんだなとか、このくらいの大きさのお皿は結構大変なんだなとか実感してもらえたら。自分がやっていることが誰かの行動のきっかけになればいいですよね」

高木さんの創作活動が関わる人の変化をうながす。その波がさらに人と人をつないでいく。時代に合わせて変わりゆく自然体は、そういう効果も持っていると思う。

窯の中の器のように、静かに燃える情熱は次にどんな作品を表してくれるのだろうか。うきはの土で作られた試作品の器を眺めながら楽しい妄想を膨らませていると、高木さんの隣の瑞枝さんがにっこりと微笑んでくれた。

陶/高木剛
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